どうも、奨学金1500万プレイヤー阪大生のPEN(@PENwitmi)です。
突然ですが、次の記事を少し読んでみてほしいです。
なぜ、銀行は変わることができなかったのか。
それは銀行が規制業種であり、他業界と比べて事業が存続できなくなるリスクが低く、変わらないままでもなんとか生き残ることができたからです。いわゆる護送船団方式の中で、銀行は外に目を向けるのではなく、横並びのまま量的拡大競争を続けてきました。
なんとかなるという意識が思考停止を招き、後戻りできないところまで来てしまった。いわば、茹でガエル寸前にまで来たわけです。
つまり、銀行衰退の最大の原因は、銀行が「変革力」を喪失してしまったからにほかなりません。
こうした状況は、何も銀行業界だけで起きていることではありません。
この記事は銀行について書かれた記事ですが、この記事の本質は先ほど抜粋した部分に集約されていると感じます。
今回は「何とかなる」思考について、徒然なるままに書きます。
何とかなる、の危険
人は、それほどバカではありません。
「考えたら事前にわかる」ような危機の多くに気付ける程度の能力は、多くの人が持っています。
それなのに、「考えたら事前にわかる」ような問題が世の中には多く起こってしまいます。
最近話題の渦中にある「年金問題」も、「老後の貯金問題」も、そしてこの記事にあるような「銀行」の話も、全て考えたら事前にわかるような問題ばかりです。
それでも事態を避けられなかった一番の原因が、「何とかなる」という思考だと私は思っています。
「何とかなる」=思考停止
「まぁ、何とかなるよ」という思考回路は非常に危険です。
それは、こう思った時点で考えることを放棄しているのがわかるから。
「(俺にはよくわからないけど、社会や周りが何か変化して、自分の知らないうちに)何とかなるよ」
こんな意図が透けて見えることが、私の体験上多いのです。
自問自答で「何とかなるよ」と結論付けてしまうのは、それ以上の思考を諦めていることに等しい。
つまり、自分で舵を取ることを放棄しているわけです。
人を安心させるために「何とかなるよ」という発言をするのは例外です。
それは「何とかなるよ」と発言している裏で、何かしらの考えがあることが多いから。
つまり、その人が「何とかする」ことによって、事態が収まるわけです。
「何とかなる」≠「何とかする」
「人生何とかなる」
私はこの言葉が好きです。
それは、私の人生自体が、どうしようもなさそうな事態から復活したり「何とかなってきた」から。
でもそれは、私が何もしないうちに劇的な変化が起こったという意味ではありません。
自分なりに考えて、行動して、その結果を受け止めて、次の考えや行動につなげてきた結果、「何とかしてきた」わけです。
つまり、私が「何とかした」ことによって、状況が「何とかなった」わけです。
「何とかなる」というのは結果であって、未来ではありません。
少なくとも、事態が「何とかなった」とき、そこには「何とかした」人がいるはずです。
「何とかなる」で思考を止めると、もうそこで終わり。
「何とかなる」という思考の裏には、自分が苦労しなくても自分以外の誰かが何とかしてくれる(だから自分は考えなくてもいい)、という魂胆が多かれ少なかれ混ざっています。
「何とかなる」と思った時点で少なくとも、そのときの思考を止めてしまい、問題を先送りにしてしまっています。
「借金抱えたけど、(そのうち未来の自分が何とかしてくれるから)何とかなる」
「こんな事態になっても(誰かが助けてくれるから)何とかなる」
こうした思考回路から逃れないと、本質的に問題が解決することはありません。
そんなことは「考えたら当たり前にわかる」ことですが、皆自分のことは後回しにしてしまうわけです。
社会問題を放置し続けてしまうお偉いさんと何ら変わりません。
政治、お金、将来、年金問題、高齢化社会、賃金・過労死・生産性の問題全部そう
政治のことはわからないけど、日本は何とかなるだろう。
お金のことはわからないけど、将来何とかなるだろう。
日本の社会問題は深刻化しているけど、誰かが何か思いついて、そのうち何とかなるだろう。
こういった思考が世の中に蔓延っているように思います。
誰かに期待するのはさておき、そこで自分自身の思考回路を止めてしまうのが日本人の悪い癖です。
自分ならどうするのか、自分はどうしたいのか、自分はどうありたいのか。
例えば借金であれば、いつまでに完済したいのか、何年後にどんな生活を送りたいのか、どんな人生にしたいのか、考えることを先延ばしにし続けていては、借金問題は解決しません。
お偉いさんが問題を放置するのを叱責するのもいいですが、まずは自分は「考えたらわかる」問題を放置していないのか、常に考えておきたいところです。
自戒を込めて。